最強タッグ恒例の「夢の対決」シングル4試合(昭和57年12月7日:福岡国際センター)とオマケ2試合の計6試合を放送。
オマケの2試合はなぜか全日の若きJr戦士・大仁田厚の試合でした。
親友ハンセンと結成した超ミラクルパワーコンビで暮れの祭典を席巻するブルーザー・ブロディ。
「ブロディ革命」を成就して全日のトップ外国人レスラーとなった超獣は、肉体面、ビジネス面いずれも最高のコンディションです。
2年前の昭和55年に「ヒザが悪いんで3年後に引退する」なんて言っちゃったもんだから、この昭和57年がいちおう最後の最強タッグ参戦となります。
劣勢が予想されたテリーは特技でもある耳からの出血を機にシフトチェンジ。
ローブロー、テーブル攻撃、噛み付きといったヒールモードで超獣と互角以上に渡り合います。
大ボラ解説者・田鶴浜さんの決めゼリフ「パンクラチオンですな」も飛び出したテキサスブロンコと超獣のブルファイト。
しかしそんな熱狂のリングサイドにテンガロンハットの大男が…。
ブロディ劣勢に居ても立ってもいられない不沈艦ハンセン。前年の最強タッグ優勝戦(蔵前国技館ファンクスvsブロディ&スヌーカ)の悪夢が蘇る乱入劇です。
なお「ハンセンですよ」の東スポ山田さんは今回の福岡決戦には帯同せず。
その代わりにゴング竹内さんが「ハンセンが出てきますよ!」と厳粛な儀式を遂行しました。
最後はもちろんドリーや鶴田(この後ハンセンと一騎打ち)も入り乱れての大乱闘。
ハードコア錯乱ムーブ全開のテリーは、場外からパイプ椅子を5個も6個もリングに投げ入れます。
まあ、このパイプ椅子でドリーがブッ叩かれちゃうんですが、いずれにせよテキサスブロンコ・テリーの芸域の広さが光った壮絶大流血マッチでした。
大乱闘の余韻が残るまま開戦したアマリロ同期生による涙のしょっぱい味付けマッチ。オシャレなプロレスTシャツを着たままのハンセンに、若大将・鶴田が猛然と襲いかかります。
大ボラアナ・倉持さんの言うところ、これが「事実上の初対決」だった両雄。
この日は両リン決着でしたが、7年後の大田区体育館ではプロレス史に残る三冠統一マッチを繰り広げることとなります。
忘れちゃいけないグレートテキサン・ドリーファンクJrは、超破壊仮面・スーパーデストロイヤー(正体=スコット・アーウィン)とお気楽なノーテーママッチをこなしました。
ちなみに超破壊仮面の最強タッグパートナーはまだら狼・上田馬之助で成績はもちろん全敗=勝ち点0。
清々しいほどの白星配給係です。
この福岡大会のマッチメイクで最も「夢の対決」度数が高かったのが、美獣・ハーリーレイスと南海の黒豹・リッキースティムボートの顔合せでしょう。
レフェリーも豪華に鉄人・ルーテーズという、NWA世界王者の三世代パック。
当時WWA、ミズーリ州、PWFの三冠王だったレイスが貫禄の勝利を収めました。
歴戦の強豪を差し置き、なぜか最強タッグ戦線をまたいで来た大仁田厚。
25歳になったばかりの11.4後楽園ホール大会で、チャボ・ゲレロ1世とのNWAインターJr王者決定戦に臨みます。
なお、後の邪道に与えられた当時のキャッチフレーズは”炎の稲妻=サンダーファイヤー”でした。
潔く敗北を認めた(かに見えた)チャボがブッ放したトロフィー攻撃は、当時小学4年生だった私にとってトラウマ級のグロシーンでした。
しかし30年後に見ると大仁田の渾身の顔芸に思わずニヤニヤ。大仁田ともども、すっかり汚い大人になっちまったもんです…。
大仁田がチャボの凶行で負った代償は甚大なもの。
左腕は23針縫う重傷で、復帰が叶ったのは1ヶ月後の蔵前国技館・リッキー戦でした。
結果は健闘の20分フルタイムドローでしたが、ややショッパかった大仁田はちょっと浮かない表情です。
10年後には有刺鉄線で全身ギザギザにされても巡業を続ける事となる涙のカリスマ。左腕の白いバンテージは説得力=0の邪道流アクセサリーと言ったところでしょうか。
そんな大仁田案件はともかく、昭和50年代後半の世界最強タッグが放つワクワク感は尋常でないレベル。
夢の対決に微妙に漂う「それじゃない」感も今となってはいい思い出です。
57年のメンバーならブロディvsレイス、テリーvsリッキーあたりがファン垂涎のカードだったでしょうか。
良くも悪くも内製化、パッケージ化を極めた現代プロレスでは絶対に生み出せないクオリティ。
今を嘆くのではなく、別ジャンルと割り切って30年前のガイジン天国に身を委ねるのが正しい楽しみ方なのかもしれません。