昭和59年2月・蔵前国技館で開催された2大タイトルマッチ。
メイン戦では、ジャンボ鶴田が日本人で初めて「AWA」の世界ベルトを奪取しました。
NWAやらAWAやらビッグプロモーター馬場さんのお膳立てを何度も何度もふいにしてきた全日の善戦マン。
喜び爆発というよりもやれやれホッとした表情でプロレス大好き・徳光さんからの祝福に答えます。
なお日米関係の不文律では、直後にリマッチ失敗→対外的に何もなかった事にして王者が帰国となるのですが、ジャンボはそのハードル(3日後の大阪決戦)も見事にクリア。
3月以降はアメリカやカナダで防衛戦を繰り広げるなど、本格派の王者として世界マットに君臨する事になります。
一方、至宝AWAベルトを「海外流出」させてしまったニックボックウィンクル。
実はこの日最大の敵は眼前のジャンボではなく、日本サイドのゴリ押しで採用された「PWFルール」でした。
歴戦のダーティチャンプにとって、反則orリングアウト決着でもベルト移動というPWFルールは事実上の死刑宣告。
これは即ち馬場さんの政治力、経済力の勝利といったところなのでしょうか。
そしてこのAWA戦の特殊レギュレーションがもう一つ。
NWA・ボブガイゲル、AWA・スタンリーブラックバーン、PWF・ロードブレアースの3会長の要請で、メイン+サブのレフェリー2人制が敷かれる事になりました。
なぜだかやたらと公正を期す全米3巨頭。
しかしその人選は、メインに大ボラ系荒馬・テリーファンク、サブに脆弱系審判・ジョー樋口という危険極まりない支離滅裂なものでした。
特にメインのテリーは、フリフリブラウスに蝶ネクタイという自由奔放なド派手ファッションで登場。
ジャンボ戴冠ムードに包まれていた国技館に一抹の不安が漂います。
試合はワルツ&ジルバ理論のニックが終始組み立て役を担当。
30分超に及んだ試合時間のうち20分近くをバリエーション豊かな腕攻めに費やすという、老獪なレスリングマスターっぷりを見せてくれました。
当時50歳近くだったはずのダーティチャンプ。怪物ジャンボを縦横無尽に操る技量とスタミナは敬服に値します。
そしてやっぱりと言うか何というか、目の前で繰り広げられる大熱戦にテリーファンクのボルテージは勝手に急上昇。負けてなるものかとお得意のオーバーアクションと顔芸でガンガン試合に入り込んできます。
この日は超満員札止めとなった蔵前国技館。
その12,500人の中で一番テンションが高かったのは、一番冷静であるべきはずのこのメインレフェリーだったのではないでしょうか。
もはやどうにも止まらない破茶目茶テリーの荒馬スピリット。
試合の佳境30分過ぎにはニックとジャンボの体当たりに巻き込まれ、場外で必殺の悶絶バタ足ムーブを炸裂させます(紙テープぐるぐる巻ミノ虫ムーブはなし)。
身悶えるメインレフェリー・テリーと、それをサポートするサブレフェリー・ジョー樋口。
これをプロレス地獄絵図と呼ばずして何と呼ぶのでしょう。
テリー離脱でいつもの“ジャンボお疲れさん”ムードが漂う国技館でしたが、ここから一気にハッピーエンドの超展開が稼働。
エプロン越しに放ったジャンボ渾身のバックドロップホールドで、日本のプロレスファンが夢にまで見た勝利のゴングが響き渡りました。
マットを叩いたのは見事蘇生したテリー。ジョー樋口も何だかよく分からんチェックでサポート。とにもかくにも日本人初のAWA世界王者誕生です。
当時小学生だった私は待ちに待ったジャンボの快挙に興奮したものですが、30年後の今見るとニヤニヤが止まらない極上のテリーファンク一人舞台。
ちなみに大ボラアナ・倉持さんによると、当時歌手活動(?!)に忙しかったテリーは「2度と復帰することはない。日本のファンにそう伝えてくれ」と試合前に語っていたとか…。
蔵前決戦2週前に東京のホテルで客死したUNヘビー級王者・デビッドフォンエリック。チャンピオンベルトにはその名前が刻まれたままです。
本来なら王者デビッドに全日第3の男・天龍が挑戦するはずだったこの日のセミファイナル。
鉄の爪ポーズの「前王者」が見守る中、悲しみの王座決定戦が行われる事になりました。
なぜか日米決戦のアングルとなった王座決定戦。日本代表は元々この日ベルトを奪取するはずだった(?)天龍。アメリカ代表はこの試合のために緊急来日した南海の黒豹・リッキースティムボートです。
「代役」リッキーは一点の曇りもない超ベビーフェース。
“お母さんが日本人”というお馴染みのエピソードもあり、ともすれば若手のホープ・天龍より会場人気は上かもしれません。
そんな2人によるギスギスもドロドロないフレッシュな一騎討ちは、デビッドへの手向けとして文句なしのマッチメークです。
クリーンファイトに終始した試合は、天龍がグランドコブラでカウントスリーを奪取。
角界から転身して8年。天龍にとってはこれが初めてのシングルベルトとなります。
インタビュアー・徳光さんによる「思い出の国技館で…」の泣かせ文句を軽くイナし、天龍は日本プロレス界のレジェンドとしての大きなステップを踏み出しました。
昭和59年(1984年)は、WWFが超人ホーガンを擁して全米侵略を開始するなど古き良きアメプロが変節していく分岐点となった年。
全日もそれに歩を合わせるかのように、夏に三沢タイガーがデビュー、年末には長州軍団の参戦と、いわゆる「らしさ」は徐々に薄れていく事となります。
鶴龍ダブル戴冠で大団円となった2.23蔵前は、これから始まる新しい時代へ一つの区切りとなった大会だと言えるでしょう。